青葉市子の大学はどこ?京都精華大学で文学部?中退した理由は?

透き通るような歌声と、心に染み込む歌詞が魅力の青葉市子さん。実は青葉市子さんは、19歳で大学を中退して、その3ヶ月後にはもうデビューアルバムを出しているんです。

青葉市子さんが通っていたのは、京都の大学の文学部。日本語教師になるための勉強をしていたそうです。でも、青葉市子さんが具体的にどこの大学かは明かされていません。

なんで青葉市子は大学を中退したの?

青葉市子さんは大学時代はどんな曲を作ってたの?

って気になりますよね。

実は青葉市子さんが大学に入ったばかりの頃に、あの名曲「ココロノセカイ」が生まれていたんです!

当時の青葉市子さんは、大学がある京都の実家と東京の銀座のバーを行き来する二重生活を送っていて、そこには深い理由がありました。

この記事では、青葉市子さんの大学時代のリアルな姿を、青葉市子さん本人のインタビューをもとに詳しく紹介していきます。

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目次

青葉市子の大学はどこ?

青葉市子さんの大学について、いろんな情報が飛び交っていますよね。

結論から言うと、どこの大学に通っていたかは特定できません

青葉市子さんの大学について実際にはっきりわかっていることって意外と少ないんです。まずは確実な情報から見ていきましょう!

京都・文学部・日本語教師課程

青葉市子さんの大学について、確実にわかっているのは次の3つです。

  • 場所:京都
  • 学部:文学部
  • 専攻:日本語教師の資格が取れるコース

青葉市子さんが大学に入学したのは2009年の春で、大学1年生の後期にあたる2009年末、19歳の終わりに大学を中退しています。

つまり、青葉市子さんが大学に通っていたのは1年弱だけだったんですね。

この青葉市子さんの大学在学期間の情報は、複数のインタビュー記事や音楽サイトで一致しているので、間違いないと思います。ただし、インタビュー内では青葉市子さんが通っていた大学名そのものは一度も公表されていません

京都精華大学出身は本当?

ネットで「青葉市子 大学」と検索すると、京都精華大学の名前がよく出てきますが、これは京都精華大学の情報館サイトに、青葉市子さんについてのファン記事が掲載されているからなんですよね。

青葉市子さんは「京都出身のアーティスト」として紹介されています。

でも、これは青葉市子さんが京都精華大学に在籍していた証拠にはならないんです。あくまで学生さんが青葉市子さんのファンとして書いた記事だから。

京都で文学部があって、日本語教師養成課程を持つ大学は他にもけっこうあります。

京都で文学部があり、日本語教師養成課程を持つ大学
  • 京都外国語大学
  • 京都産業大学
  • 佛教大学

青葉市子さんがどの大学だったのか、今のところ特定はできません。青葉市子さんが語っていない以上、大学名は「謎」のままなんです。

では青葉市子さんは、大学では何を学んでいたんでしょうか?

青葉市子は大学で何を専攻してた?

青葉市子さんが大学で選考していたのはさっき紹介したように

文学部の日本語教師養成課程でした。

音楽とは全然違う進路だね。

どうして青葉市子さんが大学でこの課程を選んだのか、気になるところですよね。

歌詞表現に生かされてる?

青葉市子さんが大学で選考していた文学部では、言葉や文学について深く学びます。日本語の構造とか、文章の書き方とか、言葉が持つリズムや響きとか。こうした大学での学びは、青葉市子さんの歌詞にも影響を与えているのかもしれませんよね。

青葉市子さんの歌詞って、繊細で独特じゃないですか。「扉をあけると果実の香りがするの」とか「夜明けのジュリアの谷」とか、言葉の選び方がすごく丁寧で、詩のように感じられますよね。

ただ、

青葉市子さんは「音楽のために大学に行ったわけではない」って語っているんです。

青葉市子さんが大学で文学部を選んだのは、音楽とは別の理由だったみたいですね。

選んだのは親の希望?

青葉市子さんが大学で選考していた日本語教師養成課程っていうのは、外国人に日本語を教える先生になるための勉強をするコースです。

なぜ青葉市子さんがこの進路を選んだのか、青葉市子さん本人は詳しく語っていないんですよね。でも、当時の青葉市子さんは両親との関係がうまくいっていなかったことをインタビューで明かしています。

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もしかしたら青葉市子さんの親の希望で、日本語教師養成課程を選んだのかも?

青葉市子さんの音楽の道に進みたい気持ちと、親の期待に応えなきゃっていう気持ち。青葉市子さんはその間で揺れていたのかもしれません。結局、青葉市子さんは1年で大学を離れて、音楽の世界へ飛び込むことになります。

青葉市子さんが大学を1年で中退した理由を詳しくみていきましょう?

青葉市子はなぜ大学を中退したの?

多くの人が気になるのが、青葉市子さんの大学の「中退」の理由ですよね。

実は青葉市子さんは、順調に大学生活を送っていたわけじゃなかったみたいです。青葉市子さん本人のインタビューから、大学時代当時の心境を探ってみましょう。

なじめなかった

青葉市子さんは、過去のインタビューでこう語っています。

「その頃の私には音楽しかなかった」
引用:音楽ナタリー

実は青葉市子さん、高校時代から、学校でうまくやっていけなかったそうです。青葉市子顔はクラスに馴染めなくて、教室に行けなくなることもあったんだとか。

そんな青葉市子さんの居場所は、放課後の音楽室や、カトリック系の学校にあったお祈りの部屋だったんだとか。そこで青葉市子さんはこっそりピアノを弾いたり、天井が高くて声が響く空間で歌ったり。

青葉市子さんが大学に入っても、その状況は変わりませんでした。授業に出ても心はそこになくて、本当に青葉市子さんがいたい場所は別にあったんですよね。

19歳で中退

2009年の終わり、1年生の後期のこと。

青葉市子さんは大学をやめて、東京へ向かう決断をするんです。

なんとこの頃、青葉市子さんにはすでにレコーディングの話が具体的に動き始めていたんです!

京都の大学に通い続けるか、音楽の道を選ぶか。青葉市子さんは迷わず音楽を選びました。

そして青葉市子さん上京するんですが、その後はどうやってデビューしたか気になりますよね。

青葉市子さんは大学中退後どうしたの?

青葉市子さんにとって大学をやめるって、すごく勇気のいる決断だったと思います。でも、青葉市子さんを待っていたのは想像以上に早い成功だったんです!中退後の展開がすごいんですよ。

大学中退から3ヶ月でデビュー

青葉市子さんは2009年末に大学を中退して、

2010年1月には1stアルバム『剃刀乙女』でデビュー。

青葉市子さんは大学中退からデビューまで、わずか数ヶ月なんです!

青葉市子さんのデビューのきっかけは、是澤泰志さんっていう音楽プロデューサーがmixiで見つけた、彼女の演奏動画でした。是澤さんはTONEレコードっていう音楽レーベルの人で、「この子の音楽をアルバムにしたい」って連絡をくれたんだそうです。

大学をやめるっていう決断は、実はギャンブルじゃなかったんですよね。すでに道は開けていたんです。

坂本龍一、細野晴臣とも共演!

大学を中退してデビュー直後、青葉市子さんの周りにはとんでもない人たちが集まってきました。

  • 坂本龍一さん
  • 細野晴臣さん
  • 小山田圭吾さん

日本の音楽シーンを作ってきたレジェンドたちですよね!

青葉市子さんがデビューして間もない頃に細野晴臣さんが主催するデイジーワールドっていうイベントに呼ばれたのんで。そこで青葉市子さんは細野さんや坂本さんと出会って、一緒に音楽を作るようになったんだとか。

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19歳の新人青葉市子さんが、いきなりこのメンバーとセッションするなんて!

それだけ青葉市子さんの音楽には、何か特別なものがあったんでしょうね。

そんな青葉市子さんがデビュー前に注目されるきっかけになった曲はどんな曲だったんでしょうか?

青葉市子が大学時代に作った曲はある?

青葉市子さんのデビュー後の成功を見た後だと、大学時代にどんな曲を作っていたのか気になりますよね。実は、青葉市子さんの代表曲の一つは、大学在学中に生まれているんです。

京都と銀座の二重生活

大学に入った頃、青葉市子さんは京都の実家と東京の銀座を行き来する生活をしていました。

青葉市子さんは、銀座にあるバーで、オープンマイクっていうイベントに参加していたんだそうです。

オープンマイク:ライブハウスなどで誰でも自由に演奏できる場のこと。

青葉市子さんは家では両親とうまくいかなくて、居場所がない。大学でも孤立していて、教室に行くのがつらい。そんな青葉市子さんにとって、銀座のバーは唯一の居場所だったんです。ここだけが青葉市子さんが自分らしくいられる場所だったんですね。

このバーに通い始めたのは、シンガーソングライターの山田庵巳さんに紹介してもらったのがきっかけだったそう。

このバーのことを歌った青葉市子さんの曲があるんです。

「ココロノセカイ」

「ココロノセカイ」は、青葉市子さんが人生で初めて書いたオリジナル曲なんです。

作ったのは、青葉市子さんが京都の大学に入ったばかりの時期で、実家で書き上げたんだとか。歌詞にはこんなフレーズがあります。

「扉をあけると果実の香りがするの」

これ、まさに青葉市子さんがオープンマイクで通っていた銀座のバーのことを歌っているんですよね。このバーは果実酒がたくさん置いてあるお店で、扉を開けると本当に果実の香りがしたんだとか。

家にいるのがつらくて、京都を抜け出して銀座に向かう。そこに行くことが「自分の心の世界にいくんだ」っていう気持ちだった。
引用:JOYSOUND 音楽ニュース

と、青葉市子さんがインタビューで語っています。

この曲のコード進行は、山田庵巳さんの「機械仕掛乃宇宙」っていう曲から借りているんだそうです。青葉市子さんは「このコード進行をいただいていいですか?」って京都から電話して、許可をもらったんだとか。

そしてもう一曲、青葉市子さんが大学在学中に作った曲があります。

「不和リン」

「ココロノセカイ」と同じ時期に青葉市子さんが書いたのが「不和リン」です。

タイトルの「不和」っていう言葉が、すべてを物語っていますよね。青葉市子さんの家族との不和、周りとうまくやれない自分。大学でも孤立していた青葉市子さんの、人間不信な気持ちが色濃く出ている曲なんです。

本人も

「人間不信ぶりがありありと書かれている」
引用:JOYSOUND 音楽ニュース

って振り返っています。

この2曲が、青葉市子っていうアーティストの原点なんですね。青葉市子さんのデビューアルバム『剃刀乙女』にも収録されて、多くのファンに愛される名曲になりました。

大学には馴染めなかった青葉市子さんですが、中学校高校時代はどうだったんでしょうか?

青葉市子は中学・高校時代はどんな学生だった?

青葉市子さんの大学入学前の話も気になりますよね。青葉市子さんって、実は中学・高校の頃からずっと音楽をやっていたんです。青葉市子さんがどんな学生時代を過ごしていたのか見てみましょう。

中学時代:吹奏楽部でクラリネット

中学生のとき、青葉市子さんは吹奏楽部に入りました。青葉市子さんは本当はフルートがやりたかったんですけど、希望者が多すぎてクラリネットになったんだそうです。

青葉市子さんが部活で演奏していたのは、レスピーギっていう作曲家の「ローマの噴水」。

青葉市子さんはこの曲の思い出が強く残っていて、2018年にリリースしたアルバム『qp』では、この曲の一部をカバーしているんですよ。

吹奏楽部で学んだ一番大きなことは「根性」だったって、青葉市子さんは笑いながら語っています。朝練があって、合宿があって、かなり体育会系だったんですって。

でも、青葉市子さんが楽器の音色が重なる美しさとか、オーケストラの素晴らしさを知ったのもこの時期でした。

高校時代:軽音楽部

青葉市子さんは高校では軽音楽部に入部しました。部員が5、6人しかいない小さな部活だったそうです。

青葉市子さん含め6人みんながやりたい曲を自動的にやることになるので、東京事変とか、ASIAN KUNG-FU GENERATIONとか、BEAT CRUSADERSなんかをコピーしていたんだとか。

青葉市子さんは誰もやりたがらないキーボードを担当したり、ドラムやボーカルもやったことがあるそうです。

でも、バンド活動は青葉市子さんは「肌に合わなかった」んですって。

そして青葉市子さんが17歳のとき、自宅に転がっていたクラシックギターを弾いてみたら、たちまちとりこに!教則本は買ったものの、ほとんど使わずに独学で弾き続けたそうです。

この独学スタイルが、今の青葉市子さんの唯一無二の演奏スタイルを生んだんですね。

最後に青葉市子さんは、大学を中退してしまったことは後悔していないのかみていきましょう。

青葉市子は大学中退を後悔してない?

大学を中退したことを、青葉市子さんは今どう思っているんでしょうか。青葉市子さんのインタビューから見えてくるのは、全く後悔していない姿でした。むしろ、青葉市子さんのあの選択があったからこその今なんですよね。

細野晴臣のアドバイス

デビュー直後、青葉市子さんは戸惑っていたそうです。

急に音楽業界に放り込まれて、何をどうしたらいいのかわからない。そんなとき、細野晴臣さんとNHK-FMの番組で一緒に「奇跡はいつでも」っていう曲を青葉市子さんは録音することになったんだそうです。

緊張していた彼女が

どうしたらいいですか?

って相談すると、細野さんはこう答えました。

自由にやって。じゃないと音楽がきらめかないから

この言葉で、青葉市子さんはは我に返ったそうです。「私はここにいていいのかもしれない」って思えた瞬間だったんですって!

大学の学歴とか肩書きじゃなくて、音楽そのもので青葉市子さん本人を認めてもらえた。この経験が、青葉市子さんの大学中退っていう選択への迷いを消してくれたんですね。

「枠に収まらないこと」の大切さ

青葉市子さんは、小学生のときにピアノ教室に通いました。でも、わずか2週間でやめちゃったんです。

理由は「指が違う」って先生に怒られたから。青葉市子さんは自己流で弾けてるのに、なんでダメなんだろう?って疑問に思ったそうです。

青葉市子さんはクラシックギターも独学なんですよね。基本的な指使いもすべて自己流で、遊んでいたら今の青葉市子さんのスタイルになったんだとか。

青葉市子さんは「枠に収まらないこと」の大切さは、山田庵巳さんから学んだって言っています。決められたルールに従うんじゃなくて、自分の感覚を信じる。それが彼女の音楽を作ってきたんです。

大学などの学校っていう枠、教則本っていう枠、常識っていう枠。そのどれにも収まらなかったからこそ、青葉市子さんの音楽は生まれたんですね。

海外ツアーでの気づき

2021年以降、青葉市子さんはヨーロッパとか北米でツアーを行っています。

海外のファンは、サブスクで青葉市子さんの音楽を見つけた人がほとんどなんだそうです。友達同士で遊びに来る感じで、ロックバンドのライブみたいに盛り上がるんですって。そこで青葉市子さんは気づいたそうです。

インタビューの中でも青葉市子さんは

「私の音楽はすでに私だけのものではない」
自分は種まきをしただけで、音楽はそれぞれの人の中で育っている。たくさんの花が咲いているところに、自分はお邪魔しているような気持ちになった。
引用:音楽ナタリー

って語っています。

大学の学歴も国境も関係ない。音楽だけが、すべてを超えて人と人をつなぐんですね。

大学を中退したことを、青葉市子さんは後悔しているような記述はひとつも見つけられませんでした。青葉市子さんは音楽っていう道を選んで、本当に良かったんです。

まとめ

青葉市子さんの大学は、京都の文学部・日本語教師養成課程でした。具体的な大学名は公表されていないんですけど、約1年間通った後、19歳で中退しています。

青葉市子さんの大学中退理由は「その頃の私には音楽しかなかった」っていう本人の言葉が全てを語っていますよね。そして青葉市子さんは大学を中退してからわずか3ヶ月後には、デビューアルバム『剃刀乙女』をリリース。坂本龍一さんとか細野晴臣さんっていったレジェンドたちに認められました。

大学の学歴じゃなくて、音楽そのもので道を切り開いた青葉市子さん。青葉市子さんの選択は、間違っていなかったんですね!

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